詩集在りし日の歌より"米子"を朗読しました。中原中也さんの詩はどれも悲しみの成分を多く含んでいて、自然と胸の奥からこみ上げてくるような涙が流れる時があるのです。
勿論、大切な詩集を汚さないようにはしていますが、毎日少しずつ何らかしら汚れつちまっていきます。それでも手に取るのをやめられません。私の頭の中は中也さんでいっぱいなのでした。それでは私なりに読み解いていきますのでどうぞ最後までどうぞよろしくお願いします。
第一連、"ポプラのように"と喩えられた米子さんは、『足の細い病弱な女性であり、いつも同じ位置で歩道の内側に立っている』と解釈しました。第二連で"
加えて二十八歳ということも知っているのです。夏は顔が汚れて秋や冬は綺麗というのは、米子さんは同じ場所でじっとしているので、夏は特に汗をかいてそれに土埃が舞って付着し汚れて見えたのだと想像しました。
第三連、"お嫁に行けば病気は治るかに思われる"とあるので、これは恐らく米子さんは帰らぬ恋人を待っていたのではないでしょうか。どれだけの季節が流れても同じ場所でずっと待っていたのではないでしょうか。米子さんはきっと短い会話の中でそのようなことを私に話したのです。
米子さんの恋人がその場所で亡くなられたのか、それとも恋人がその場所から何処かへ旅立ったのかはわかりませんが、第四連から"言つて却つて、落胆させては"とあるので、私は米子さんの恋人がその時どういう状況にあるのかを知っている(予想できている)ということになります。しかし確信はなかったので、私は結局"云わずじまひであつた"のだと解釈しました。
最後の連、米子さんはもうそこには居ないのです。歩道に沿って立っていたのは米子さんのようなポプラの木でした。風が吹いてしゃらりしゃらりと揺れる音が米子さんのか細い声と似ていました。それを懐かしみ、もう一度聞いてみたいと思ったのでしょう。米子さんが何処に行ったのかは書かれていません。きっと恋人に会えて幸せいっぱいに暮らしているのだと私は信じています。
拙い読み解きでしたが、最後まで読んでくれてありがとうございました。朗読も良ければきいてください。それでは又。
ポプラのやうに、
――かぼそい
お
しかし
なぜかしら、
――かぼそい