中原中也さんの"冬の長門峡"を朗読しました。中也さんの長男が結核で亡くなられた後しばらくして、中也さんは"文也の一生"を綴り、それと同じ筆で冬の長門峡も書かれました。
一見して部屋から映る自然の美しさを描いているようですが、中也さんの心中には耐え難い悲しみがありました。亡き文也さんを思い出しながら一人でお酒を飲み、静寂の建物の中で夕暮れを迎えるのです。川の流れをぼんやりと眺めながら人の魂もきっとこのようであるのではないかと問うのです。天竺の先まで流れ流れて行くことはあの夕陽が沈んでいくように理であると思うのでした。
私はいつの日か長門峡に行ったことがあります。いえ、行ったことがあるといっても道の駅に寄っただけで峡谷には辿り着いていないのです。今年は色々な所へ行ってみようと考えていたのですが、なかなか時間が取れずに今日に至ります。行きたい場所は星の数程あるのです。
最後まで読んでくれてありがとうございました。翼があるのに羽ばたかない理由は私がひどく臆病であるからでしょうか。心を込めて朗読しました。良ければきいてください。それでは又。
われは
われのほか
やがても
あゝ! ――そのやうな