想望手記

小学5年生で統合失調症を発症しました。このブログでは症状や体験談に加えて、精神障害者の生活をリアルタイムに発信しています。記事の内容が誰かの役にたってくれたら嬉しいです。

想望手記

屋根のなかった家で

 当時、引きこもりだった私は、15歳の時に上京しました。小学5年生から不登校になり、それからずっと家の外には一歩も出ていなかったのに、私はこの日、テレビでしか見たことのない都会を目指して、初めて乗る電車に揺られていました。

 上京した理由をよく覚えていないのですが、私の手には、都会の駅までの切符と、二ヶ月程度は暮らしていけるであろう(現在の貨幣価値で)、お札の入った財布が握られていました。

 

 それからのことは、途切れ途切れに覚えています。そのお金の使い道がわからずに、半月程で使い切ってしまったこと。お昼は公園のベンチ、夜はガード下で過ごしていたこと。水分補給は公園で出来たけど、毎日食べるものに困っていたこと。私と同じ、家を持たない人達が親切にしてくれて、廃棄された食べ物を得る方法を教えてもらったこと等。

 

 思い返せば、色々とありました。そのような私の現在は、憧れだった書斎のある家に住んで、インスタント珈琲を片手に、今日の夕飯メニューを考えていたりします。人生とはわからないもので、あの頃の私には夢見るしかできなかった世界が、目の前に広がっているのでした。

 この記事では、私がそのホームレスだった頃について、詳しく書いてみようと思います。この文章が何かの参考になったり、誰かの役にたってもらえたら嬉しいです。

 

 当時、全てのお金を使い果たしていた私は、昼間は公園で過ごし、夜になるとガード下にダンボールを敷いて暖を取っていました。お腹が空いても食べ物はなく、水ばかりを飲んで過ごしていました。そのような時に、私に食べ物を与えてくれたのが、私と同じ屋根を持たない人達でした。

 差し出されたお弁当を必死で食べながら、色々と質問された後に、私はその人達と行動を共にするようになりました。こういった廃棄の食べ物は、ゴミとして出す時間が決まっていて、そこにはなわばりもありました。勝手に行って取ってしまうことは、許されないのだときつく教えられました。

 何故このようなルールがあるのかというと、例えばその日、廃棄で100が出されたとして、ルールを知らない新人ホームレスのAさんが先に来て、70を持っていったとします。すると、後から来た10人くらいのホームレスの人達は、残りの30を10人以上で分けることになります。そうするとAさんのせいで、その狭い地域のホームレス全員が困ってしまうのです。そうならない為にリーダーがいて、なわばりを統括しているのでした。

 

 ホームレスというのは、不平等を極端に嫌います。グループの中の誰かが良い思いをしたら(酔っ払いに1万円札をもらった等)、それをグループ全員で共有する人が大半です。ですから体調不良で誰かが寝込んだ時は、グループ全員で親身になって助け合うのでした。

 この餌取り(言葉が汚くて申し訳ないです。グループ内ではこう言っていました)について、場所やルールを教えてもらえなかったり、グループに混ぜてもらったりしないと、当時の私は恐らく、栄養失調で餓死していたと思うのです。あの頃の人達には今も感謝しています。その気持ちを忘れたことはありません。

 

 最後まで読んでくれてありがとうございました。不愉快な文章であったのなら申し訳ありません。ただ、このような経験をしたという事実を書きたいと思ったのです。この記事に共感してくれる人がいたり、何かの役に立ってくれることがあれば嬉しいです。それでは又。