想望手記

小学5年生で統合失調症を発症しました。このブログでは症状や体験談に加えて、精神障害者の生活をリアルタイムに発信しています。記事の内容が誰かの役にたってくれたら嬉しいです。

想望手記

私たちの魂の行方

 先日、何気なくクリックした他記事の後半で、同じ統合失調症である青葉真司被告(京都アニメーション放火殺人事件の被告人。以下被告)について書かれているものを目にしました。その記事は、裁判の様子や被告の生い立ちついて詳しく書かれていました。

 

 被告と私は、"統合失調症で文章を書くのが好き"、という共通点がありました。加えて生い立ちの一部だったり、強迫観念や、思い込みについても共通していました。してはいたのですが、私は人様を傷つけようとは思わないし、物を壊したり盗んだりもしません。心神喪失で無罪はありえない、心身衰弱で刑の軽減もないだろうと思いながら、その記事を閉じました。

 我慢ができなくなって、気が狂いそうになるというなら、いっそのこと狂ってしまえば良いのです。誰もいない山奥にでも行って、思い切り叫んだら良いでしょう。何故そこに他人が必要なのか、私には理解できません。統合失調症の方のブログや、動画を観ることがありますが、そうだね、たしかに、と共感できるものが多いです。しかし、被告に対してはそれがなく、真っ黒い気持ちだけが押し寄せてくるのでした。

 自閉症状の悪化、その孤独という一点だけを考えるとしたら、それは酷い寂しさを被告に与えたのでしょう。望まない孤独に耐え続けながら、濁った空を見上げる日々に、誰かに気づいてほしくて、存在を認めてほしくて、ひとり筆を握っていたのでしょうか。被告は一体、何処から道を間違えてしまったのでしょうね。

 

 応募した作品を盗まれたと書いてありましたが、創作する者は人様の作品を盗んだりはしません。文章には魂が宿ります。創作者が盗作をしない理由の一つは、盗んだ魂と己の魂を混ぜ合わせた時に、自分は自分で失くなることを知っているからです。子供の頃から培ってきた純度100%の自分を守り抜くことは、私達が普段、ありとあらゆる危険から身を守っているようなものです。その純度を少しずつ高めていくことが、創作者の喜びであるのだと、被告はそのように思わなかったのでしょうか。

 私も物書きの端くれとして申しますが、自分が命を削って創作した作品が、もしも誰かに盗まれたのだとしたら、私は嬉しく思います。その理由は、誰かにとって私の文章や言葉が必要だと思ってもらえたからです。誰かの心を動かせたからです。そして、多くの誰かに読んでもらえるのであれば、公になったものに自分の名前は無くても良いです。持論ですが、創作とはそういうものなのです。

 此処に何を書いても、被告に届くことはないでしょう。それでも何かを伝えたいと思うのは、私が同じ物書きであり、統合失調症を患っているからかもしれません。全ての思い込みを断って、犯した罪と真摯に向き合った先に、待っているのが死であるとしても、犠牲者を冒涜することは決して赦されないのです。私はこれからも、犯罪被害者の慟哭が、少しでも軽減されるように願い続けています。

 

 重い記事になりました。ここまで読んでくれてありがとうございました。統合失調症は危険だからと、偏見の目で見られるのはとてもつらいことです。ただ、精神障害者に限らず、犯罪と人間とは近しい位置に在るような気がします。何かの歯車がひとつ欠けただけで、あらぬ方向へと堕ちていく場合もあるかもしれません。そうならないように、私は毎日、小さな幸せを見つけて生きていきます。京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者の方のご冥福をあらためてお祈りいたします。それでは又。