わたくし、文学作品は縦書きしか認めていませんの。横書きの文学なんてナンセンスですわ。みたいな人がいたら、私はその方から少しずつ、フェードアウトしたい衝動に駆られます。多様性を求められる今の時代、何でもかんでも認めてしまえとも思わないのですが、間口を広げるといった意味では、固執しない考え方は大切だと感じています。
私自身、横書きより縦書きの方が読みやすいですし、好き好んで横書きの作品を選んだりはしませんが、「これ横書きだったら読むのになぁ」、という方も少なからずおられると思うのです。そういった方々が、文学作品に触れる機会を失うのはもったいない気がします。日本の文化がこうであるからとか、脳科学的に右から読んだ方がなんちゃらとか、色々と理由があるとは思いますが、同じ内容の作品であるのなら、どのような読み方をしても良いのではないでしょうか。
では、横書きで読むのが好きな人は、一体どういう人なのかと考えてみました。一番最初に浮かんだのは、インターネットの文章に慣れている方です。
一昔前に、携帯小説が流行った時代がありました。携帯小説とはガラケーを使って小説を書いて投稿する、それをガラケーを使って誰かが読むといったものです。当時のガラケーは、パソコンサイトが表示できずに、縦書き表示もできなかったので、全て横書きで書かれていました。その作品の中には、絵文字や造語、記号や顔文字が盛りだくさんで、当時は「読書もついに、こういう時代になったのかぁ」と思いながら、私はそれを遠巻きに眺めていました。しかし、携帯小説が書籍化するや否や、作者や読者に向かって非難の雨が降り注いだのでした。
批判された内容を一言で説明すると、「こんなものは小説ではない」とのことでした。書籍化したケータイ小説をわざわざ購入してきて、それをびりびりに破った写真をミクシィに載せていたり、個人ブログや匿名掲示板を使って、名指しで晒し行為をしたりと、何だかイジメの現場を見ているようで、当時は本当に心苦しかったです。私がミクシィで、携帯小説についての考え(見たくなかったら蓋を開けなければいい的な何か)を書いた時も、それはもう多くの方に袋叩きにされましたし、ケータイ小説は害悪だという風潮が、とにかく凄まじかったのです。
しかし、携帯小説が好きで、携帯小説しか読まないといった方もおられると思います。その好きの質量は、私が何かの作品を好きな気持ちと多分変わらないでしょうし、その人にとっての好きなものを、他の誰かが批判するのはおかしなことなので、自分に合うものだけを取り入れて楽しむのが一番でしょう。
と、ここまで書いておいてひっくり返すようですが、当時の携帯小説には目も当てられない作品もありました。それは援助交際を助長するものだったり、癌等の病気をよく調べずに書いていたり、その他、強姦、薬物等を軽視した内容にも、読者を不快にさせる要素は十二分にあったと思います。そういったものが悪影響になったり、これから多くの物語に触れていく上で、文法の基礎を知らずに(私も怪しいです)理解するのは、無理があるようにも感じていましたが、法を犯しているわけではないので、その本人が何を読むのかは、自由であるというのが私の考えでした。
これからの未来、横書きで読みたい人が、横書きで読めるようになる時代が来ると良いですね。言葉や表現の仕方も、時代と共に変わっていくでしょうし、紙媒体もいつかは無くなってしまうかもしれないけど、私は自分の好きに固執して、いつまでも追求していきます。それは決して変わらないのです。
最後まで読んでくれてありがとうございました。今のケータイ小説はよくわかりませんが、00年代当時は魔女狩りみたいになっていました(ケータイ小説の感想を書いただけで炎上等)。しかし、嫌いと感じるものに自分から近づいて、「うん、嫌い!」と言う人の気持ちを未だに理解できません。何故でしょうね。それでは又。