想望手記

小学5年生で統合失調症を発症しました。このブログでは症状や体験談に加えて、精神障害者の生活をリアルタイムに発信しています。記事の内容が誰かの役にたってくれたら嬉しいです。

想望手記

読書感想文が書けなくて

 私はプロフィールに書いてある通り、本を読むことが趣味です。いつも何かに栞を挟んでいます。これといったジャンル決めはなく、面白そうと感じた本は何でも読みます。なので、今まで読んだ本の感想等を記事にしてみようかなと、思うこともあったのですが、どうしても最後まで書くことが出来ませんでした。私は本の感想が書けない人なのです。

 

 小学校中学年の頃のお話です。夏休みの宿題の中には、私の苦手な読書感想文がありました。去年はこれのせいで、夏休み明けにひどい体罰を受けました。今年も同じ先生が担任だったので、前のようには絶対になりたくないと震えていました。

 私は、図書室で借りてきたおとぎ話の何か(人魚姫だったような気がします)を颯爽と読み終えて、そして大きな原稿用紙を机に広げて、いざ読書感想文を書こうとするのですが、やはり何も浮かんでこないのです。隅々まできちんと読んでいたはずなのに、私の鉛筆は静止したまま動かなかったのです。

 同じ宿題の絵日記は、すらすらと書けるのに、読書感想文になると書けないのは、本当に不思議でした。それに加えて、原稿用紙二枚分という指定、一枚ですら絶望的なのに、それを二枚も書くなんて気が遠くなりました。私は困りました。ぽつぽつと文字を並べてみても、せいぜい原稿用紙半分程度にしかならず、これでは提出しても、げんこつやビンタをされるに決まっているのです(当時は宿題を忘れるとビンタ、忘れ物をするとげんこつ等、体罰が日常的にあり、恐怖が支配している世紀末でした)。

 

 私は夏休みの間、読書感想文を書くのを先送りにしていましたが、8月31日の最終日が目前になると、信じられない行動に出ました。それは、大変お恥ずかしいのですが、他の人の読書感想文を読んで参考にするという、何とも間の抜けたことを実行したのでした。

 そうして何人かの同級生の家に、何食わぬ顔で遊びに行き、書き終わった読書感想文を読ませてもらいました。しかし、原稿用紙二枚に書いてあったのは、あらすじ、あらすじ、あらすじのオンパレードでありました。これは感想文じゃないのかも、という疑いが強く、この同級生たちも多分、世紀末を生き残れないだろうと直感しました。そして私自身も、もう感想文を書くのは無理だろうと諦めかけたのですが、最後に見せてもらった同級生の感想文に、私は衝撃を受けたのです。

 それは、題名と名前の後に"面白かった。"とだけ書かれた原稿用紙でした。え、それだけ? 私はこの瞬間、卑しくも自分は生き残ったのではないかと思ったのです。この同級生が犠牲になって、担任の怒りを一身に請け負ってくれるかもしれないと。最低で狡猾な私は、生還を夢見ながら家に帰り、原稿用紙一枚にも満たない読書感想文をランドセルに放り込んだのでした。

 

 夏休み明けの宿題提出時、私とその同級生だけが、往復ビンタの刑に処されるのですが、同級生の書いたあのひとことだけの感想文は、何も間違っていなかったと、今は思うのです。少なくとも、私と同じように、書きたいように書いた結果です。私はその同志を文字数だけで推し量り、勝手に犠牲にして、自分だけが生還しようとしたのです。そのような下衆の悪童だったことに悔いるばかりであります。はあ、思い返す度に情けがないのです。

 そういった紆余曲折ありまして、私は本の感想を書くのが苦手なのでした。無理に書こうとすると、頭の中に虫がいるみたいに、もやもやします。故に私は、適正ではないと思うようにしています。それに、私より解りやすく伝えられて、文章が上手な人を私はいっぱい知っています。そういう人達の本や記事、書評を読んでいると、心の内側から幸せな気持ちになります。その幸せは私の楽しみなのです。私はそれを読み続ける人間なのでしょう。

 

 ブログを通して、文章を書けるのは嬉しいですが、私は自分が書きたいものしか書けないようです。けれど、何でも器用に書けないからこそ、誰かの心に届いてくれるような気もしているのです。その誰かはきっと、私と何処か似ているのだと思います。同じ色をしてるのだと思います。

 そしていつの日か、その誰かに巡り会えるとも信じているのです。それが私の存在している間に叶わなかったとしても、この電子の銀河に言葉がある限り、私はその誰かを永遠に待ち続けることが出来るのかもしれません。

 

 最後まで読んでくれてありがとうございました。拙いながら詩の読み解きはどうにかできますのに、なんとも不思議な話なのです。これはある種のトラウマでしょうか。くぅ、努力してみます。それでは又。