想望手記

統合失調症と共に日々を生きていくブログです。中原中也さん他、近代詩の朗読も配信しています。

想望手記

知る知らん事々

 あれはいつの事でしたか、はっきりとは覚えていないのです。

 15歳の私は都会の商店街を歩いていました。すれ違う大人からはお酒の匂いや香水のツンとした香りがして、天の川銀河のようなネオンの光は何も持たない私の心を高揚させていました。この場所は私が初めて自分の足で歩いた都会の繁華街でした。駅の近くの高架下で眠る時はいつもあの満天の星を思い出していました。

 

 臨時収入があった日は回転寿司店に行くのが最高の贅沢でした。田舎育ちの私にはお寿司のお皿が回っているのがなんとも愉快だったのです。イクラとたまごをお腹いっぱい食べるのが私の目的でありましたが、お寿司のネタが干からびて何周もしているお皿を見るとなんだかやりきれなくなり、いつもついついそれを手に取ってしまいました。そのおかげか否か私はお寿司で食べれないネタはないのです。

 それが気になり始めたのは店員さん同士の会話がきっかけだったと記憶しています。話によると干からびたお寿司はどうやら廃棄されるらしく、それは明日食べるご飯も心配するような私にとっては店員さんたちが悪魔の化身のように思えたのです。

 それを知ってしまうともういけません。私は目的のネタを食べることは叶わず、新鮮さを失って乾いたネタや少し黒ずんだマグロ等を目を凝らして見張り始めました。私はいつもそのようでありましたから、回転寿司店に行けない日も廃棄されてしまうお寿司のことを臆病に考えて過ごしたのでした。

 

 或る日のことです。いつものようにわずかなお金を握りしめてお店に入り、いつものように動くレーンから干からびたネタのお皿を取ろうとしたら、店員さんがそれはもう廃棄するからと今握ったものを笑顔で私に差し出してきたのです。

 この時の何とも憎らしい感情といったら、この世のものとは思えない地獄を体験した思いでした。身体が熱くなって口惜しさで凍えてしまいそうでしたが、私は廃棄されるお皿で良いですからとも言えずにすぐに退店しました。そうしていつもの高架下でごろりと寝転がったのです。それが最後にお店に行った日の出来事でありました。

 

 知るというのは罪深いものであります。しかし知らんというのもこれもまた罪悪であるのです。私の生きている世界ではこのようなことで溢れています。故に何処かに落とし所を見つけないと壊れてしまうようですが、そういった意味で私はいつも壊れてしまっているのです。それらは鋭利な刃物で私を何度も傷つけるのです。そしてその痛みに慣れていくことが悲しくて仕方がないのでした。そうして私は歳を重ねて汚れつちまった大人になったのでしょう。

 最後まで読んでくれてありがとうございました。この記事を書いている現在は新鮮なネタが常に届くようにお店側が配慮しています。私は満面の笑みでイクラとたまごをタッチするのでした。それでは又。