想望手記

統合失調症と共に日々を生きていくブログです。中原中也さん他、近代詩の朗読も配信しています。

想望手記

森人の安寧

 ――或る日の森の中。

 囁くような風が吹くと、見上げる樹々はしゃりしゃりと揺れて、青葉の隙間から温かい陽が差し込んできました。そして小鳥たちの声が森に調和すると、僅かに果物の匂いが一面を覆ったのでした。

 

 この森は数多の生命で溢れています。植物も、昆虫も、人間も、皆同じ質量の魂を有しています。故に私は昆虫より力があるとは思わないし、新緑よりも若作りをするつもりもないのでした。私はただ目の前に広がる道を静かに歩きたくて、でも仲間外れにはされたくなくて、こうしていつ出来たのかわからない道を歩いていると、蒸気機関車が線路に沿って進んでいく理由がわかる気がしたのです。

 人は誰かによって作られた道を当たり前に歩いていくもので、それに違和感を覚えることもまた当たり前であるように思っています。私は誰かの作ってくれた道に感謝しながら、後から来る人が歩きやすいようにと道を踏み固めていく性分で、そこに道が在るのなら別の道を探すという選択をしないのです。ただ表現に関しては道なき道を彷徨うことに身を投じています。大変情けなくも心を砕かない日はないのです。

 

 私は文章を書くのが好きです。思想を綴るのが大好きです。それなのに詩を書くでもなく、小説を描くでもなく、何かを批評するでもなく、このような日記とも手記とも言い表せない散文を日々書いております。幸か不幸か私は才能という業火に焼かれることはなく、無才の努力と共に日々を忙しく過ごせています。「君は結局、何を伝えたいの?」と問われても、私は何と答えていいかわからずに困ってしまうくらいには統合されていないのでした。

 けれども、私はそれを少しも恥ずかしいとは思いません。何故ならそれが私には合っているからです。魔法使いのように空を飛ぶことはできないし、かまいたちのように速くも走れないことを誰よりも存じております。それでも世間では飛べぬことは恥だと言われますし、スピードの遅さは罪だと責めたてられるのですが、私の魂はもうそこに存在していないのです。故に私はこの最果ての森を迷うことなく歩き続けられるのでした。

 

 ――立ち止まって目を閉じる。

 頬に分散する温もりを感じていると、生きていることが当たり前ではないと気づかせてくれます。私は今自分の意思で呼吸をしているのだとはっきりと申し上げることができます。動かない心臓を握りしめていた頃、都会の窓際で雑踏を眺めて過ぎる一日とは違っています。

 長い間探し求めていた終止符が、この自然の地にあるような気がしてなりません。こういった今を大切に想いながら、今しか書けないものをこれからも記録していく所存です。最後まで読んでくれてありがとうございました。いつも読んでくれてありがとうございます。今日はコーンスープが飲みたい気分なのです。それでは又。