空気のように存在していれば厄介事に巻き込まれることはない。そう思っていた時期がありましたが社会というものに溶け込むとそれが一変しました。私は自己を主張をせずに就業規則を厳守し、言われたことを機械のように黙々とやっていたのです。
毎日が同じように繰り返されることは私の日々を安心させるものでした。役職を持っている方はそれを良しとしてくれるのですが、サボり癖のある先輩からはもっと適当にやれと言われていました。私はその度に「はい」と頭を下げながら、仕事を適当にやる手順はわからないままだったのです。
集団において主張を放棄するのは、主張の強い人間についていくことです。それが例え意に反する決定であっても、自らを主張しない限りはそれに沿うしかないのです。かと言って声の大きい人間に対して主張したとしても、声の小さい人間の主張は聞き入れてもらえず、決別するか、支配されるか、かき消されるかのどれかになります。そうすると自らが大きな声を出すしかないように思えますが、私は一切そのようになりたくありませんでした。
そうして一つの答えに辿り着いた時、私は抵抗もなく流れて行く笹舟のような静けさを望んでいました。ただそこに咲いている野花のように生きたいと願ったのでした。その後声の大きい人が居ない世界へ引っ越すと、鉄の鎧を脱いだかのように身体は軽くなり、あれだけ心臓を締め付けていた鎖が解けていきました。そこにはとある孤人の始まりがありました。それは少し温かくて何処か悲しい場所でありました。
今では、あの日々の中で言われた「適当にやれ」の意味がどうにかわかります。到底理解出来るものではありませんが何を言わんとしていたかはわかるのです。人間とは利己的な生き物でありますし、それを私が指摘したりどうこう言うつもりはありません。ただこれから先に同じ状況になった時、私は何か主張をするのかと問われれば恐らく何も伝えずに「はい」と頭を下げるのだと思います。それが私の主張なのでした。最後まで読んでくれてありがとうございました。それでは又。