私が学校に行けなくなったのは小学五年生の時でした。
胸がちくりちくりと痛み始めたのはその少し前からです。クラスメイトに胸の辺りをドンと押された時、これまで感じたことのないズキッとした痛みがして、私はその場にうずくまって泣いてしまいました。それからというもの走ると胸全体に違和感を感じ、乳首がやけにむず痒かったりと何か悪い病気にかかっているのではないかと思い、私は日々怯えながら暮らしていました。
それから何度も親に相談してようやく近くの病院に連れて行ってもらえたのですが、その病院の先生は「思春期にはよくあることだから」と、処方箋は出してもらえずにそのまま家に帰ることになりました。私はどうにも納得できませんでした。よくあることなのにどうしてこんなに痛くて他の人は痛がってないのだろうと不信感しかなかったのです。
しばらくすると胸がふっくらと膨らんできました。ちくちくしていた痛みも前よりひどくなっていました。故に身体を動かす体育の授業が苦痛で仕方がなく、着替えも前みたいに教室で堂々と出来なくて、部活についても体罰が当たり前の怖い先生がコーチだったので辞めたいとも言えずにどうにか参加する他はありませんでした。
そのような日々が数ヶ月続いた頃、学校の帰り道で私は初めての声をきいたのです。今思えばそれは幻聴でしかないのですが、当時は名前も知らない神様が喋っているものだと信じていました。家の裏山に誰も管理していないぼろぼろの社がありまして、私はよくそこで遊んでいたのでそれが関連してこの不可思議を信じ込む要因になったのだと分析しています。
その声の内容は「次の曲がり角を左へ曲がらないと不幸になる」というものでした。私はその日に多くの声をきいて指示に従いました。それが妙に心地良かったのを覚えています。そうして家にたどり着いたのは日が暮れてからになりました。
玄関を開けて自分の部屋の椅子に座ってもその声は聞こえてきました。そしてその神様は教えてくれたのです。家族も、病院も、学校も、みんながグルになって私を治療せずに病気にさせて殺してしまう計画があるのだと。その声をきいた瞬間、私はパズルの最後のピースが埋まったようなスッキリとした気分になったのでした。
合点がいった私は窓にダンボールを敷き詰めてガムテープで補強しました。そしてカーテンを閉め切りました。これは覗かれるのを防ぐためと誰かに窓を割られた時に私が怪我をしないためでした。次には食事に毒を盛られている可能性を考えて、自分で袋をあけれるような食べ物(菓子パンなど)を家族に要求しました。しかしそのような要求が通るはずはなく最初は全く用意してもらえませんでした。
それでもお腹が空くのを我慢して、部屋の扉を閉め切って鍵を開けなかったのです。夜中になると鍵を外してそっと台所に行き、水や食料を確保して自室に戻りました。当然ながら学校には行けずに布団の上でただじっとして時間が過ぎるのを待っていました。
そして私はいつも神様ではない誰かに悪口を言われていました。それは一人の声の時もあるし複数の時もありました。部屋の外から聞こえてきたり時には部屋の中からも聞こえてきました。いくら両手で耳を塞いだとしてもその声ははっきりと聞こえてくるのです。最初は大声を出して抵抗したり怒鳴ってみたりもしました。しかしそれが無駄だとわかると、私は時折その声と会話をするようになっていました。
又、テレビをつけると自分が学校に行ってないことがニュース番組で放送されていました。恐ろしくなってバラエティ番組にチャンネルを変えると今度はみんなで自分のことを笑っていました。なのでテレビを見る時は深夜の音楽番組や砂嵐、放送終了後のカラーバーを見て過ごしたのです。
目を閉じると石を投げられることがあるので、なるべく目は閉じないように生活していました。ダンボールで光すら差し込まないようにしてあるのに窓からはいつも他人の視線を強く感じていました。ドア越しに家族と会話をしていると自分が何を話しているのかわからなくなりました。自分の話した内容で相手が怒ったり傷ついたりしないか、会話が終わった後にいつも不安に思っていました。
私には神様が作ったルールがいくつも存在していました。このルールに反すると厄災が降り掛かってくるので、出来る限りは守らなければならないと実行していました。守れなかった時は布団にくるまって怯えていました。
起きたらカーテンの隙間の全てに手を入れなさい。
食事は必ず左側から口をつけなさい。
日が暮れるまでに東西南北に向かって三回ずつ祈りなさい。
氷の入った飲み物を飲む場合は、氷が溶けるまで指で何度も押しなさい。
声を出したら深呼吸を60回しなさい等、これはその当時のルールの一部です。まだたくさんあったと思うのですが記憶が定かではありません。ただ私がルールを守るたびに神様は必ず褒めてくれたのです。
学校の先生が家に来たのは一度だけでした。私の祖父に玄関で追い返されている様子を私は自室でじっと聞いていました。その一度だけでした。その後も私の家族は私を病院には連れて行きませんでした。今になってわかるのは私の家族は世間体を気にしていたのです。一人息子だった私に溢れるくらいの期待をかけて育てていたのに、その結果耳を塞ぎたくなるようなおかしなことを言う子供に成長してしまった。たしかにいたたまれません。大変申し訳ないと思います。
その後、私は私宅監置されたまま義務教育を終えました。つまり私の最終学歴は"小学校中退"となります。小学校の卒業証書もなく中学校の卒業証書も持っていません。ただこれは誰のせいでもなく自分の心の向き次第だったと思っています。座敷牢の中で過ごしたあの日々を私がこのブログに書く理由は一つだけです。人はいつからでもやり直せるし変わることができるということを忘れないためです。悔やむことも、学ぶことも、愛することも、その全ては本人の心次第だと理解しているのです。
中には当然失われたままの現実もあります。例えば文化祭でフォークダンスを踊ったり、教室に宅配ピザを呼んで先生に怒られたり、買い食いをしながら二人乗りで下校したり、修学旅行の夜の枕投げだったり、そういう青春の一切はあの頃にしか体験できません。しかし私は今、青春とも言える真っ只中にいる気分なのです。なにやら不思議に思いますがそれもまた本人の心向き一つであるのでしょうか。
最後まで読んでくれてありがとうございました。それでは又。