声をあげて泣いている人がいたら、どうしたのだろうと誰もが心配になるでしょう。その時貴方ならどうしますか? 直接声をかけるか、誰かが声をかけるまで見守るか、そのどちらかではないでしょうか。素通りという選択は特別な理由を除いて出来ないと思います。
このような状況で何の見返りもなく声をかけるのは、なにやら生物の本能らしいのです(調べてみました)。そうして声をあげて泣いていた人は誰かの優しさに触れて、笑顔を取り戻して歩き始めるのです。いっぱい涙を流してスッキリとした気持ちもあるのでしょう。そして悲しい時に助けてもらったから今度は自分が誰かの温もりになろうと、そのような正しい連鎖が生まれ続けるのです。
では、声をあげずに泣く人がいたとして。
例えば放課後の学童でのお話です。ある男の子が母親を待っていたら同級生がふざけて鉛筆の先で手の甲を刺しました。その子は痛みがくると同時に鉛筆で刺した同級生を反射的に突き飛ばしてしまいました。突き飛ばされた男子はびっくりして泣いてしまいました。
その泣き声をきいて児童支援員がやってきました。支援員は泣いている同級生をなだめながら、喧嘩は良くないと刺された男の子に言いました。同級生は嗚咽混じりに泣きながら「そいつが突き飛ばしたんだ」と支援員に言います。そして泣き声が一段と大きくなりました。
支援員は同級生をなだめながら、刺された男の子に謝るように促しました。刺された男の子は状況を説明したかったのですが、頭の中がぐちゃぐちゃして思っていることが声になりませんでした。上手く言葉に出来なかったのです。その子がしばらく黙っていると、支援員は強い口調で「謝りなさい!」と一喝しました。
刺された男の子はびっくりして反射的に「ごめんなさい」と言いました。それを聞いた同級生の鳴き声はどんどん小さくなっていき、ちょうど迎えに来た親の元へと走っていきました。支援員もそれに続いて刺した同級生の親に先程このようなことがありましたと報告していました。
刺された男の子はそれを遠目に見ながら、得も言われないどろどろとした感情が身体を支配していくのを感じていました。刺されて赤黒くなった手の甲を隠すようにして固く口を閉ざして背を向けたのでした。そして、このようなことが一度や二度だけではなく放課後の学童で何度も起こっていたのを母親が知ったのは随分と後のことでした。母親は気づいてあげられなかったことを悔やみました。
その後、刺された男の子は学童だけではなく学校自体にも行けなくなり、家でテレビを見たり人形遊びをして暮らしています。自宅で学ぼうにも勉強にすら拒絶反応を起こすのです。このようなわかりにくい子供たちはいつの時代も不遇不義の中で育てられています。この子たちの沈黙の悲鳴に一番最初に気づいてあげれるのは現場の方々なのです。
傷つけられた心は氷のようにかたくなり、しばらくは融解を許さないかもしれません。それでも温め続ければいつかは溶けて流れるはずです。明けない夜はなく、止まない雨もなく、ただただ信じて声をかけるしかないのです。加えてそれをするのも防ぐのも大人の役割です。声の大きさと信用は比例していません。一等星だけを見るような教育がなくなるように、私は自らに可能な限りの努力をするばかりです。
最後まで読んでくれてありがとうございました。この例えのお話について全ての教育者がそうとは言い切りません。血の通う誠意ある指導をされる方も数多くいらっしゃいます。しかしそういう方の声はとても優しく小さいのです。それは子供の世界も大人の世界も変わりはないのでしょう。私に子供はいないけれど、子供の傍で微笑むことくらいはできるのです。それでは又。