ぽかぽか陽気を肌で感じながら、私は窓際で目を閉じていました。聞きなれた生き物の声がしています。風の音や機械の音、どこか懐かしい木の香りに、瞼の温もりは何とも心地良く、不意にこの身を委ねると自我が消えてしまいそうになるのでした。
このままではいけないのです。もしここで私が意識を失ってしまったら、私の身体はどんどん小さく縮んでいって、気がついた時には森の中の縁側に座っているかもしれないのです。小川のさらさらとした優しい音色にハッとして、ひどく小さくなった手の平を見つめた後は、目の前の坂を飛ぶようにして駆け下りていくのです。無垢の空に雷雨はなく、希望の未来はきっと晴れていると信じて疑わなかったあの頃。
そのような少年時代のありふれた日々、タイムスリップに関連する夢を年に何回か見ます。それは何故か、真昼に見る夢に多いです(たしか白昼夢と言いましたよね)。なので、私はお昼寝が大好きなのですけど、時間旅行が恐ろしいので眠ってしまうのを避けているのです。私が少年でなくなってしまった日のことは、今でも鮮明に思い出せます。
ふらりと外を歩けば、手の届きそうな空に桜が流れていました。ひらひら、ひらひらとワルツを踊っているように見えました。とても楽しい気分にはなれませんでした。悠久に咲き続ける華はないし、雨は誰に対しても平等に降り注ぎます。それは大自然の恵みといいますか、紡がれた理の中で私たちは生かされているのに、それを受け入れようとしないのは何故でしょうか。何故、同じ世界で争いを繰り広げるのでしょうか。
かてて加えて、その人たちは弱きを見つけて攻撃します。自分が攻撃されない為に、誰かの標的にならない為に攻撃をします。時には徒党を組み、その身が枯れるまで追い詰める。例えば、顔に火傷の跡が残っている学生。例えば、家庭の事情でお風呂に入れない学生。例えば、人との接し方や距離感がわからない学生。例えば、身体の成長が皆とは異なる学生がいたとして。
それらは周知、認識はされるが同じとして認められることは少なく、心なき平等から迫害を受けるのでしょう。そしてその痛みは、まるでノコギリの刃を引かれたかのように、決して傷跡が消えることはないのです。たとえ悲しみが癒えても、その記憶が残存する限り、何度でもそれはやってくるのです。なので共生という他はありません。
私はそういった傷跡を持つ方と接する機会が多く、いえ自身もそうであるが故に、同じ体温を感じることは一つの安らぎでした。それは傷の舐め合いというよりは、傷跡があるのが当たり前なので何ら気になりません。相手の傷跡も、私の傷跡も、一切は気にならないのです。お互いにそう思っているのです。
故に私は、痛みを経験できて良かったと感じています。子供の頃はそんな風に考えることが出来なかったのに不思議です。嫌なことをされた数だけ優しくなれるのです。そんなことを思いながら、黒いさくらを見上げながら、私は帰路についたのでした。冷たいカレーライスが待っています。最後まで読んでくれてありがとうございました。それでは又。