想望手記

国立和歩のブログです。中原中也、高村光太郎等、近代詩の朗読も配信しています。

想望手記

老いていく日々の中で

 これは、私が死んだ後の話になるのですが、例えばこのはてなブログさんが100年先も存在していたとして、或いはユーチューブさんが1000年先でも保管されていたとして、その時代に生きる人々がふと私の文章を読んでくれたり、アップロードしている朗読を聴いてもらえたりする未来を想像しながら、形容しがたい幸福に包まれることが最近はよくあります。大変差し出がましい想いです。

 しかしそれは極々僅かな確率です。貴方に私のことを見つけてもらえたくらいの確率でしょうか。そのような未来事に想いを馳せるのは、稚児の絵空事と言うなかれ、恐らくは過去の人々もずっと昔の私たちの祖先も、きっと同じように考えていたのではないでしょうか。これを読んでいる貴方も一度は考えたことがあるのではないでしょうか。まだ見ぬ未来に何かを残したいと思ったことはありませんか。

 このブログも文章も、動画にしている朗読も、私にとっては生きた証です。たとえ誰の目にも留まらなくても、仮に誰も聴いてくれなくとも、私はただただ記録し続けます(いえ、それは随分と寂しく思いますので、思い出した時に開いてくれると嬉しいのです)。そうして私はひどく安心して老いていくのです。老いて、笑って、空に還った後もこの刻んだ命が絶える事はなく、ひっそりとした光を放ち続けてほしいと願っているのです。それが私の生きるという認識です。

 こういった考え方に変化したのは、随分と多くの年齢を重ねたからでしょうか。若葉の頃は何かを残したいなんて考えもしませんでした。あろうことか枯れる前に散ってしまいたいなどと考え、その不安定な精神に揺さぶられて、長らく土に籠もった季節もありました。それは大変に愚かでありながら、かけがえのない経験となり、今を生きていく大切な糧となっています。

 だから私は覚えているのです。忘れないのです。時々こうして遠い誰かを思い出しています。そうすればその誰かは輝きを取り戻し、今という時代を一緒に生きることが出来るのです。肉体の死と記憶の死、人はニ度死ぬといいますが、私は後者の真理を重んじています。それはこれからも変わることなく、この日々は淡々と過ぎていくのです。最後まで読んでくれてありがとうございました。それでは又。