これは、私が死んだ後の話になるのですが、例えばこのはてなブログさんが100年先も存在していたとして、或いはユーチューブさんが1000年先でも保管されていたとして、その時代に生きる人々がふと私の文章を読んでくれたり、アップロードしている朗読を聴いてもらえたりする未来を想像しながら、形容しがたい幸福に包まれることが最近はよくあります。大変、差し出がましい想いです。
しかしそれは、極々僅かな確率です。貴方に私のことを見つけてもらえたくらいの確率でしょうか。そのような未来事に想いを馳せるのは、稚児の絵空事と言うなかれ、恐らくは過去の人々も、ずっと昔の私たちの祖先も、きっと同じように考えていたのではないでしょうか。これを読んでいる貴方も、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。まだ見ぬ未来に、何かを残したいと思ったことはありませんか。
このブログも文章も、動画にしている朗読も、私にとっては生きた証です。たとえ誰の目にも留まらなくても、かりに誰も聴いてくれなくとも、私はただただ記録し続けます(いえ、それは随分と寂しく思いますので、思い出した時に開いてくれると嬉しいのです)。そうして、私はひどく安心して老いていくのです。老いて、笑って、空に還った後も、この刻んだ命が絶える事はなく、ひっそりとした光を放ち続けてほしいと願っているのです。それが私の生きるという認識でした。
こういった考え方に変化したのは、随分と多くの年齢を重ねたからでしょうか。若葉の頃は何かを残したいなんて考えもしませんでした。あろうことか、水分を失い枯れる前に散ってしまいたいなどと考え、その不安定な精神に揺さぶられ、長らく土に籠もった季節もありました。それは大変に愚かでありながら、かけがえのない経験となり、今を生きていく大切な糧となっています。
だから、私は覚えているのです。忘れないのです。時々こうして、遠い誰かを思い出しています。そうすればその誰かは輝きを取り戻し、今という時代を一緒に生きることが出来るのです。肉体の死と記憶の死、人はニ度死ぬといいますが、私は後者の真理を重んじています。それはこれからも変わることなく、この日々は淡々と過ぎていくのです。