ポプラのやうに、
――かぼそい
お
しかし
なぜかしら、
――かぼそい
詩集『在りし日の歌』より、米子を朗読しました。中原中也さんの詩はどれも悲しみの成分を多く含んでいて、自然と胸の奥からこみ上げてくるような涙が流れる時があります。勿論、大切な詩集を汚さないようにはしていますが、毎日少しずつ何らかしら汚れっちまっていきます。それでも手に取るのをやめません。私の頭の中は中也さんでいっぱいなのです。それでは読み解いていきますので、どうぞ最後までよろしくお願いします。
第一連、"ポプラのように"と喩えられた米子さんは、『足の細い病弱な女性であり、いつも同じ位置で歩道の内側に立っている』と解釈しました。第二連で"
第三連、"お嫁に行けば病気は治るかに思われる"とあるので、これは恐らく、米子さんは帰らぬ恋人を待っていたのではないでしょうか。どれだけの季節が流れても、同じ場所でずっと待っていたのではないでしょうか。米子さんはきっと、短い会話の中でそのようなことを私に話したのです。
米子さんの恋人がその場所で亡くなられたのか、それとも恋人がその場所から何処かへ旅立ったのかはわかりませんが、第四連から"言つて却つて、落胆させては"とあるので、私は米子さんの恋人がどういう状況にあるのかをある程度は知っている(予想できる)ということになります。しかし確信はなかったので、私は結局"云わずじまひであつた"のだと解釈しました。
最後の連、米子さんはもう此処には居ません。歩道に沿って立っていたのは、米子さんのようなポプラの木でした。風が吹いてしゃらりしゃらりと揺れる音が、米子さんのか細い声と似ていたのです。それを懐かしみ、もう一度聞いてみたいと思ったのでしょう。米子さんが何処に行ったのかは書かれていません。きっと恋人に会えて幸せいっぱいに暮らしているのだと、私は信じているのです。
拙い読み解きでしたが、最後まで読んでくれてありがとうございました。朗読も良ければきいてください。それでは又。