今年、最後の記事になります。これまで活動してきた半年間を振り返ってみると、私は夏の始まりに発声や朗読の勉強を始めました。このブログを開設したのもその時期でした。
あの頃は、ただただ漠然と何かを表現したいと思っていました。その表現というのは私にとっては雲を掴むような想いでした。私が表現をして誰かに見ていただく、見ていただいた誰かが何かを思ってくださる。それはとても光栄であると同時にとても恐ろしいことでした。
よく覚えてはいませんが、過去に注目を集めて派手に失敗した経験でもあるかのように、私はついこの間まで、誰かの視線や評価を出来る限り反らしてきました。目立たず、声を上げず、印象に残らず、日陰を好み、音のしない風のような生活を好んでいました。それなのに私は表現者を
私はそれについて右も左も分からなかったので、まずは演劇の勉強をしてみたり、昔話をベースに紙芝居を作ってみたり、自作の詩を書いて朗読してみたりと、色々とやっては見たものの、どの素晴らしい世界も私に当てはまっているとは思えませんでした。しかしながら声だけで表現することは、得意か不得意かは遠くに置いときましても、とても性に合っているのだと確信したのです。
だって何かを表現をしながら、誰かの視線が気にならないのですから。そのような都合の良いことが果たしてあったのです。この時の閃き、あの喜びはどうお伝えして良いのかわかりません。陳腐な言葉で書きたくないのでお伝えしないことにします。兎にも角にも、私は嬉しかったのです。まるでそれは未来へと続く虹の架け橋と、そのような……嗚呼、とても陳腐に書いてしまうのでした。
秋頃から私は、約30点ほどの近代文学作品を朗読してきました。最初の動画を再生してみると、緊張からか声が震えていました。いえ、今でも声は震えています。きっとこの先も声が震えるのでしょう。私はまだ何も出来てはいないし、何も完成などしていません。けれど、こうして日々学び続けることで、わずかながらにでも成長していけるのだとしたら、私はそれを貪欲に求めたいと思っています。何故ならようやく私らしさを見つけることが出来たからです。
私はこれからも、詩の書けない詩人として朗読を続けていきます。そんな詩人がいてたまるものかと、それには私も少しばかり共感できるのですが、そのでたらめさの中で私は堂々と生きてみようと決めたのです。太陽の光を浴びてたくさんの栄養を吸収しようと決めたのです。この決心はそういう類の覚悟なのです。
そして、人に何かを与えたいなどという、正しい傲慢さに溺れてしまわないように、良ければ貴方が私を見守っていてください。ユーチューブやスタンドエフエムでの評価、コメント、チャンネル登録等をしていただいて心より感謝しています。ブログを読んでくれてありがとう。声を聴いてくれてありがとう。このインターネットの片隅で私を見つけてくれてありがとう。
2023年もどうぞよろしくお願いします。
皆様、良いお年をお迎えください。
国立和歩