例えばそう、私は椅子取りゲームが嫌いでした。ほら、あの音楽が鳴って、急に音楽がぴたんと止まって、皆で一斉に足りない椅子を取り合うあのゲームです。椅子に座れた人がいて、椅子に座れなかった人がいる。その構図に得体の知れない気味悪さを感じていました。皆と同じようにぐるぐる歩いて、一番最初に座れないと安心しました。
例えばそう、遠足で持参するお弁当が嫌いでした。手作りの豪華なお弁当の人もいれば、当日にコンビニで買ったであろう菓子パンの人もいる。同じ学校での一大イベントなのに家庭環境で異なる食事に疑問を抱きました。でも、300円までと決められていたお菓子は好きでした。誰も悲しい顔をせずに、楽しくお菓子が食べれたからです。
だけど、皆で手を繋いでゴールをしたり、皆が同じ空間で同じ教育を受けるのはおかしいと考えています。私は決して平等を求めているわけではないのです。ただ、力の強い者、声の大きい者、頭の良い者だけが優位に立ち続けるという競争世界に耐えられなかっただけでした。それはもう惨めったらしく逃げ出してしまうくらいに苦手だったのです。
故に長年、私は自分のことを愚者だと思っていました。吠えることすら出来ない負け犬だと思っていました。そしていつも、世間を恐れていました。いつもいつも誰かの犠牲になってきました。社会に出てもそれは変わることはなく、笑ってさえいればことが済みますし、私が何も言わなければことが終わるのです。可哀想な人が、可哀想にならないように、可哀想な人になることが、一番良いとして生きていました。
そのように過ごしていますと、いつしか私は孤独で暖をとるようになりました。休日に一人、好きな読書をし、自然と共に歩き、裸電球の部屋に帰って珈琲をいれる。君は寂しくはないのかと問われれば、これで良いのですと笑って言いますし、君は寂しいやつだと言われれば、それで良いのだと真面目な顔で言えるのです。心の通じる人は少数で良い。それは未来の伴侶でも身近な仲間でも良いし、視座の高さだけ合えば良いのです。
そういった同じ質量を持つ者同士が巡り合い、共に助け合って生きる世界を私は望んでいます。確かにそう、望むだけは何も変わらないです。変わりませんでした。だから私は綴っているのだと思います。こうしてインターネットの片隅で発信し続けるのは、同じ魂を持つ誰かに見つけて欲しいのもありますが、何より、私は私らしく歩んでいきたいという意思表示なのかもしれません。
私はこの先も一切の競争を拒絶します。時代に流されることなく、同じ色彩で迎えてくれる純喫茶のような、そのような活動をこれからも続けていきたいです。最後まで読んでくれてありがとうございました。一節でも共感していただけたら嬉しいです。それではまた。