木の枝で騎士のまねごとをする少年。ホウキにまたがり空を見上げる少女。私はそれを横目に見ながら、通い慣れた井戸で水を汲んでいました。つるべから冷たい水がはねて頬を濡らしました。あぁ、なんて気持ちが良い朝なのでしょう。私はルネーメ村を包む陽の光に感謝しながら父のもとへと急いだのです。
このような世界観が大好きで、時々ぽけーっと部屋の天井を眺めていることがあります。私の人生とファンタジーは切っても切り離せない赤い糸のようです。思い返せば、子供の頃もそうだったかもしれません。先生の異国語を聞きながら、風の鳴る音を聴きながら、黒板の文字を見つめながら、大冒険をしていたあの頃、私が学校に行けなくなったのは小学五年生の時です。
胸がちくちくと痛みはじめたのは、その約一年前、秋だったと思います。クラスメイトに胸の辺りを押された時、ズキッとした感じたことのない痛みがして、私はその場にうずくまってしまいました。それからというもの、走ると胸に違和感と痛みがあり、乳首がむず痒かったりと、何か悪い病気にかかっているのだと思い、私は日々怯えながら暮らしていました。
そうして何度か親にその旨を話して、ようやく近くの病院に連れて行ってもらえたのですが、病院の先生は「思春期にはよくあることだから」と、処方箋は出してもらえずに家に帰ることになりました。私は納得ができませんでした。よくあることなのにどうしてこんなに痛くて、他の人は痛がってないのだろうと不信感しかなかったのです。
それからしばらくすると、胸がふっくらと膨らんできました。ちくちくしていた痛みも前よりひどくなっていました。学校に行っても体育の授業が苦痛で仕方がなく、着替えも前みたいに堂々と出来なくて、部活は体罰が当たり前の怖い先生がコーチだったので、辞めたいとも言えずに参加する他はありませんでした。
そのような日々が続いた頃、学校の帰り道で初めての声をきいたのです。今思えばそれは幻聴なのですが、当時は神様が喋っているものだと信じていました。家の裏山に誰も管理していないぼろぼろの社があって、私はそこでよく遊んでいたので、それも関連して不可思議を信じ込む要因になったのだと考えています。その声の内容は「次の曲がり角を左へ曲がらないと不幸にする」というものでした。私はその日、多くの声をきいて指示に従い、家にたどり着いたのは日が暮れてからになりました。
玄関を開けて、自分の部屋に入ってもその声は聞こえてきました。そして神様は教えてくれたのです。家族も、病院も、学校も、みんなグルになって私を治療せずに、病気にさせて殺そうとしてるのだと。その言葉をきいた時、私はパズルのピースが埋まったようなスッキリとした気分になったのでした。
合点がいった私は、窓にダンボールを敷き詰めてガムテープで補強しました。そしてカーテンを閉めました。これは覗かれるのを防ぐためと、窓を割られた時に私が怪我をしないためでした。次は食事に毒を盛られている可能性を考えて、自分で袋をあけれるような食べ物(菓子パンなど)を家族に要求しました。しかしそのような要求が通るはずはなく、最初は全く用意してもらえませんでした。
それでもお腹が空くのを我慢をして、部屋の扉を閉めて鍵を開けませんでした。夜中になると鍵を開けてそっと台所に行き、水や食料を確保して部屋に戻りました。当然ながら学校には行けず、布団の上でただじっと時間が過ぎるのを待っていました。そして、私はいつも神様ではない誰かに悪口を言われていました。それは一人の声の時も、複数の時もありました。部屋の外から聞こえてくるし、時には部屋の中からも聞こえてきました。いくら耳を塞いでもはっきりと聞こえてくるのです。最初は大声を出して抵抗したり、怒鳴り返したりしていました。しかしそれが無駄だとわかると、時折会話をするようにもなったのです。
テレビをつけると、自分が学校に行ってないことがニュースで放送されていました。バラエティ番組にチャンネルを変えると、今度は皆で自分を笑っていました。なので深夜の音楽番組や砂嵐、放送終了の虹を見て過ごしました。目を閉じると石を投げられることがあるので、なるべく目は閉じないようにしていました。ダンボールで陽の光すら入らないようにしてあるのに、窓からはいつも他人の視線を感じていました。ドア越しに家族と会話をしていると、自分が何を話しているのかわからなくなりました。自分の話した内容で相手が怒ったり傷ついたりしないか、会話が終わった後にいつも不安に思っていました。
神様が作ったルールが存在していました。このルールに反すると厄災が降り掛かってくるので、出来る限りは守らなければならないと実行していました。守れなかった時はただただ布団にくるまって怯えていました。起きたらカーテンの隙間の全てに手を入れなさい。食事は必ず左側から口をつけなさい。日が暮れるまでに東西南北に向かって三回ずつ祈りなさい。氷の入った飲み物を飲む場合は、氷が溶けるまで指で何度も押しなさい。声を出したら深呼吸を60回しなさい等、これはそのルールの一部です。まだたくさんあったと思うのですが、記憶が定かではありません。ただ、私がルールを守るたびに神様は必ず褒めてくれました。
学校の先生が家に来たのは一度だけでした。それも私の祖父に玄関で追い返されていました。私はじっとその様子を聞いていました。その一度だけです。その後も私の家族は、私を精神病院には連れて行きませんでした。今になってわかるのは、私の家族は世間体を気にしていたのです。一人息子の私に、押し潰すくらいの期待をかけて育てていたのに、その結果、耳を塞ぎたくなるようなおかしなことを言う子供に成長してしまった。たしかにいたたまれません。大変申し訳ないと思います。そうは思いますが、救われたかったとも思います。勝手な言い分ですが、私は救われたかったのです。
その後、私は私宅監置されて義務教育を終えました。小学校の卒業証書もなく、中学校の卒業証書もありません。分数の掛け算だって出来なかったのです。座敷牢の中で過ごしたあの日々をこのブログに書く理由は一つだけです。我が子が少しでもおかしいと感じたなら、すぐに医療機関や福祉に繋げてあげてほしいのです。
子供は貴方を睨みつけるかもしれない。口を聞いてくれないかもしれない。部屋の鍵を開けてくれないかもしれない。暴れて貴方を傷つけられるかもしれない。それでも、頬を引っ叩いてでも未来へ繋げてあげてください。家族時計の秒針が止まってしまわないように、優しくゼンマイを巻いてあげてください。もし、家族だけの力でどうにもならない場合は、役所や民間企業を頼ってください。この世界は貴方が思っているより多くの愛情で溢れています。きっと誰かが救ってくれます。だから頼ってください。
最後まで読んでくれてありがとうございました。私が当事者として伝えたいのは、人はいつからでもやり直せるし、変わることができます。悔やむことも、学ぶことも、愛することも、その全ては心ひとつであります。でも中には当然、失われたままのこともあります。
例えば文化祭でフォークダンスを踊ったり、体育祭で円陣を組んで皆で涙を流したり、好きな人の下駄箱にラブレターを入れたり、学校にピザハットを呼んで先生に怒られたり、買い食いをしながら二人乗りで下校したり、そういう青春の一切はあの頃にしか経験できないのです。でも私は今、青春真っ只中です。アオハル真っ最中でございます。不思議なことですね。その全ても心ひとつであるのです。それでは又。