想望手記

朗読家丨国立和歩のブログです。中原中也、高村光太郎等、近代詩の朗読を配信しています。

想望手記

朗読家としての始まり

 朗読についてのエッセイです。貴方がこの記事を読まれる前に、最初にお伝えしたいことがあります。私は朗読について、特別な訓練を受けた人間ではありません。故に技術的なことを一切記すことができないのです。かてて加えて、演技や声のプロフェッショナルでもないので、朗読の仕方やコツ等のアドバイス的な要素はこの記事にはありません。その点について予めご了承ください。

 それでは、これより少しばかりお付き合いいただければ幸いです。

 私が朗読を始めたばかりの頃は、とにかく良い声を作らないといけない。聞き取りやすさを意識しないといけない。そんな具合に意識を外側にばかり向けて朗読をしていました。

 それは誰かに向けて発信するという点では、とても大切なことに思えますが、しかし私は何だか不思議と居心地の悪さを感じていました。こちらの伝えたいことが全く別の意味で捉えられたような戸惑いとでもいいましょうか。そうして何作品か朗読していく内に、私はとあることに気づきました。

 作品や作者が全く違うのに、私の朗読はどれも似たような読み方になっていたのです。言ってしまえば教科書読みというか、極力誰からの批判も受けないような、当たり障りのない無難であろう読み方をしていました。元来、朗読というのは聞き手に正しく文章を伝えるのが目的なので、そうあるべきで何も間違ってはいません。しかし何かが違う気がして引っかかりを感じていたのです。

 それからしばらくして、辿り着いた一つの答えが「いつも通り読み解いたままに朗読してみる」でした。良い声なんて意識しなくていい。聞き取りやすさなんて考えなくていい。作者の意図や心情、言葉に込められた想い、その場面や時代背景等を自分なりに解釈して、想うがままに朗読してみようという結論に至りました。

 実際にそのように朗読をしてみると、以前のような外側に向いていた意識がごっそり剥がれ落ちていたので、自分なりの表現が少しだけ出来るようになっていました。何とも不思議な感覚でした。表現力については拙くまだまだ未熟ですが、ただ、読み解いたままをどうにか伝えようとする想いは、自身にとって本当に心地の良いものでした。故に朗読というものがより一層楽しくなり、もっと多くの表現をしてみたいと考えるようになりました。

 人はそれぞれ違いがありますが、私はこのようにして朗読を発信しています。例えば、中原中也さんの詩を朗読する時は、精一杯中也さんになりきって朗読しています。朔太郎さんも、光太郎さんも、同じようになりきって表現しています。今後も各作品の読み解きをじっくりとして、それから声と音で紡いでいきたいです。ただ、良い声について、正しい発声についても、決して疎かにせず、基礎的な訓練もみっちりと勉強していきます。

 願わくば、国立和歩のユーチューブチャンネルでしか聞けないような、唯一無二の個性的な朗読がしてみたいと思っているのです。それは夢なのです。そのような目標を掲げて精進していきますので、どうかこれからも応援していただけたら嬉しいです。最後まで読んでくれてありがとうございました。それではまた。

 

 

声と音の文学館

https://www.youtube.com/@kntc