カーテンを開けると、灰色の空が浮かんでいました。責任のない風たちは木々を揺らして、ひゅうひゅうと音を立てて走り過ぎていきます。薄墨の日。あれは笑ってもいないし、ましてや怒ってなどなく、少しばかりの悲しみを含みながら、じっと私を見つめているのでした。
突然のことで、何と言って良いのか……。とにかくびっくりしています。私の声が聴こえていますか。鍵を開けて出てきてください。皆、貴方のことを心配しています。太陽の光を吸収しないと病気になります。家にこもっていると筋肉が弱って歩けなくなります。菓子パンだけではなく、栄養のあるものを食べた方が良いでしょう。貴方はやればできる子なのです。何処か気晴らしに行きませんか。私はずっと信じていますから。つらいのは貴方一人ではなく、皆も同じようにつらいのです。私の声が聴こえていますか。もういい加減にしてください。一体これからどうして生きていくつもりでしょう。ずっとあのまま生きていくつもりでしょうか。あれは大人になっても変わらないのでしょうか。あれはどうすれば家の外に出るのでしょうか。
私が家を出たのは15歳の春でした。ちょうどこのような空の色が映る日でした。何故家を出るのことになったのか、何故電車を乗り継ぎ大都会を目指したのか、何故繁華街のネオンを見上げていたのか、何故ひどく臭う男性と一緒に寝なければならないのか、何故食べ物を求めてゴミ箱を開けるのか、そのような断片的な記憶だけが残っていて、どうしてそうなったのかは覚えていないのです。
わからないままに過ぎていった時間は、私の人生の大半を占めていました。その期間は何をやっても他人事で、喩えるなら水の中で呼吸をしているようでもありました。私ではない私が、私の皮をかぶって生きていたようです。それから何年か経って、都会の灯りの一切が消えて、空白だった私の実家が還ってきました。不思議と懐かしいという感覚はありませんでした。しかしそれは何とも変わり果てた姿でした。
私はその後、初めて福祉の世界と繋がることになり、多くの恵みと清浄を受けることができました。そして、丘の上にある精神病院を紹介されて訪れたのです。先生は私を見てやわらかに微笑んでくれました。そのまま通院するようになって一年が経ち、お薬のおかげで段々と意識がはっきりとしてきました。どうやら私の精神時計は小学五年生のあの日のまま止まっていたようです。病院を出て空を見上げると、霧が晴れたように懐かしい海が広がっていました。
今は多くの緑に囲まれた、小さなアパートで静かに暮らしています。ここでは勉強と経験の繰り返しです。私は此処で生きているのです。もう二度と失わないように、この世界を何よりも大切します。そういえば、記憶と向き合っている内に一つだけ新しく思い出したことがあります。それは子供の頃、暗い部屋で見ていたテレビのカラーバーが、繁華街を彩るネオン看板に良く似ていたことでした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。私には色々とハンデがあるように思われるかもしれませんが、私自身、ハンデではなくスタートが遅れた程度にしか感じていません。例えば家庭環境が悪いとか、学校や世間が悪いとか、誰も救ってくれないとか、消えてしまいたい、死んでしまいたいとか、私はそのようには思わないのです。
こうして巡り巡って、今という素晴らしい人生があることに感謝しています。いえ、何をもって素晴らしいとするかは、本人次第ではあるのですが、私は私らしく在れることが一番の幸せだと思っています。しかし、それに気づくのに随分と時間がかかりました。それでは又。