――かの
もう
うつくしい
――
中原中也さんの妹よを朗読しました。一人で詩集を開いて朗読する時は、このように解釈を文字に起こさないので、普段の頭の中では散らかっているのかもしれません。なのでブログを通して読み解いていく時間が私は好きです。拙い解説となりますが、最後までどうぞよろしくお願いします。
正当と書いて"あたりき"と読むのは、とても中也さんらしいと思います(あたりきとはあたりまえを洒落て言っています)。その派生で"あたぼう"等もありますよね。職人さんが「あたぼうよ!」と言ってるのをきいたことがありませんか。いえ、私の世代だけでしょうか……。
妹よ。しかし中也さんに妹はいません。不思議でした。何度か繰り返し読んでいる内に、中也さんの大好きな宮沢賢治さんが浮かんできました。恋人だった泰子さんが、中也さんを置いて小林秀雄さんのもとへと去った後、しばらくして手に取った詩集が宮沢賢治さんの"春と修羅"でした。これはおそらくそういうことなのだと、私は解釈しています。
最後の行の"祈るより他、私に術はなかった"の部分について。この行を読む度に違和感がありました。なんだかスッとしないのです。読点の通りに朗読すれば良いのではないかと、最初はそう思ってもいたのですが、それだとリズムが平坦過ぎて印象に残らない気がしたのです。中也さんがそのように朗読するとは思えないので、意図的にリズムを崩した方が良いと考え、読点はそのままにして声を吹き込んでいます。
中也さんならこんな時にどうするのかと、いつも考えています。中也さんの独特な言葉の波紋は、ちょうど炎の欠片が宙を舞って消えていくのを見ているような、手を伸ばせばパッと消えてしまうような、そのような儚さを私に届けてくれるのです。詩集を開く度、中也さんを傍に感じることができて幸せなのでした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。私はこのように読み解きました等ございましたら、お問い合わせからでもコメント欄からでも結構です。教えていただけたら嬉しいです。朗読も良ければきいてください。それでは又。