キッチンはいつも同じ色をしているから好きです。しかしシンクに熱いものを置いてしまうと、たちまち火傷してしまう感覚が皮膚全体に伝わってきて、それはもう全身に鳥肌が巡ってしまうので、あらかじめ水を流してから、冷やしてから置くようにしています。そうしないとシンクがかわいそうで仕方がなく、果たしてそれをいつ頃からしているのか、私の記憶には記録されていないのでした。
車に向かってくる虫が潰される度に、喉の奥を針で突かれているような気分になります。それは決して耐えきれない痛みではないのだけれど、胸の中に広がる嫌なものを我慢していると、この気が狂ってしまいそうになるのです。加えて車を発進させる時は、何か動物や虫が車体の下で暖を取っていないかと、エンジンがかかってもしばらくアクセルを踏めずにいます。そのような日々、毎日を生きています。
テレビで生花を見ていると身体がひんやりとします。ハサミで切られているのがお花の首や手、足や胴体なのだと想像して目を逸らしてしまうのです。そのような臆病者であるが故に、私はつまようじの先端すら恐れてしまうのです。何故ならあれは、私をじっと見つめて離さないからです。そうして見えなくても良い現実が映らないようにと、その内に私の眼球を壊すものとして存在しているのです。
その臆病者は殺された動物の肉を食卓に並べて、あたかも正者であるようにいただきますと手を合わせたりもするのでした。ハサミで切られるより余程に痛いであろう噛み砕かれた植物に対して、何一つ変わらない体温を保ち続けるのです。生きる為に仕方なくやっていることだと言えば、大概の勝手は許されるのかもしれない。人が人を食らう以外は赦されるとお思いに違いないのです。
見渡せばどこまでも咲いている野花のように、私は一切を傷つけたくはないのに、生きている限りは何かが崩れて失われていく。その虚実と矛盾に進んで身を投じた私はきっと天国への切符を持たないのです。それでもこの目に映るものを愛してやまないのですから、これからも臆病者は怯えながら想像するのでしょう。それを空と知りながら。
最後まで読んでくれてありがとうございました。それでは又。