時代に取り残されたようなカクテルバーがありました。大通りに出ている看板はぼろぼろで薄暗く、まるで見つけてほしくないような高い位置にあり、細い路地に入って木製の重い扉を開けると、モダンな雰囲気の素敵空間が広がっていました。
そして、七十歳は過ぎているであろう紳士にエスコートされて、その素晴らしい風景の一部になったのは、四年程前のことになります。
熱々のおしぼりを受け取りながら、「何がいい?」と声をかけられた私は、少し緊張しながら、お気に入りのカクテルを注文しました。美しい音色が店内に響き始めました。
マスターのその洗練された手捌きに加えて、差し出されたカクテルがあまりにも美味しかったものですから、私は言うまでもなく虜となり、月に何度か、このカクテルバーに通うようになりました。
いつドアベルを鳴らしても、一人か二人かが静かにお酒を楽しんでいるといった店内は、時計の針がゆっくりと進んでいるように感じて、時折、此処は本当に現実の世界なのだろうかと、疑いを持つことすらありました。それ故か、お店の扉を開ける瞬間は、何だか少年に戻ったみたいに妙にわくわくして、世間に疲れ切った私の心を癒やしてくれました。
それから時は流れて、つい今しがた、そのお店が看板を下ろしたことを人づてに聞きました。一年前から体調不良でお店を閉めていたので、こういった覚悟はしていたのですが、やはりやりきれない気持ちでいっぱいになりました。それと同時に、「ピッチがはやい!」と、ぶうぶう言っていたマスターの元気な顔をふと思い出したのです。
いつまでも続くと思っていた何かが思い出に変わる時、私はいつも何も出来ずにいます。もっと早くに知っていたらと、いつも悔やんでいます。だから私は、当たり前に過ぎていく時間の中で、宝石のように輝く瞬間を大切にしています。日常で何気なく口にした「ありがとう」という言葉が、誰かの心に深く焼き付いてしまうかもしれないと想像すると、私はいつもこの上ない笑顔で、感謝を伝えたいと思うのでした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。シェイカーを振る姿が最高に格好良いマスターでした。その姿は、心にくっきりと焼き付いています。私もマスターのように美しく生きましょう。ピッチは程々に、今日もお酒が美味しいのです。それでは又。